|
3代目蝶花楼 馬楽(さんだいめ ちょうかろう ばらく、元治元年(1864年)4月15日 - 大正3年(1914年)1月17日は、落語家。本名:本間弥太郎。俗に「弥太っぺ馬楽」「狂馬楽」「気違い馬楽」。 芝の袋物商(またはセリ呉服)の本間要助の子として生まれる。若い時から放蕩に身を持ち崩して勘当される。止む無く博徒新場の子安の元で居候となる、この頃から落語や講談の真似をしていた。1886年頃、一家の余興で演じた物真似が偶々居合せた3代目春風亭柳枝に見出され、噺家となる。 最初の名が初代春風亭千枝。才能を認められ僅か一年足らずで二つ目昇進。仲の好かった兄弟子春風亭傳枝(本名:金坂巳之助 後の5代目桂才賀)と組んで「モリョリョン踊り」という珍芸で売り出す。だが、飲む打つ買うの道楽が納まらず、賭博の現行犯で逮捕される事も度々、1か月の間懲役刑となる憂き目に合い、ついに師匠柳枝から破門される。 1897年頃、一時桂市兵衛と名乗るが、翌1898年、3代目柳家小さん一門に移籍し、同年3代目蝶花楼馬楽襲名。しかし、襲名を巡って2代目蝶花楼馬楽の遺児であった顔役「森定」が挨拶も無しにと寄席に殴り込まれるトラブルが発生する。 馬楽襲名後も荒んだ生活態度が改まらず、道楽に走っていたが、才能を惜しむ小さんの後押しで1905年、雷門小助六(本名:鶴本勝太郎 後の4代目古今亭志ん生)、初代柳家小せん(本名:鈴木万次郎)と共に「落語研究会」前座に抜擢され、俄然注目される。同年真打昇進。江戸前の芸風に鋭い警句をはさむ詩情豊かな高座で人気を集め、志賀直哉、岡村柿紅、久保田万太郎、岡鬼太郎、斎藤緑雨など文化人に愛された。歌人の吉井勇も熱心な馬楽ファンで『いやさらに寂しかるらむ馬道の馬楽の家の春も暮るれば』という歌を詠んでいる。 馬風自身も文人めいた清貧の生活を送った。連日のように吉原に通うので浅草馬道の自宅には、めぼしい家財道具や蓄えも無かった。だが、おびただしい数の書籍が箱に収められていた。また俳句も好くし『長屋の花見』のマクラに好く使われている『長屋中歯を食いしばる花見かな』『古袷秋刀魚に合わす顔もなし』などの佳句を残している。茶目っ気に富み、友人に頼んで「加藤清正蔚山に籠る。谷干城熊本城へ籠る。本間弥太郎当家の二階に籠る。」と紙に書いてもらい、それを玄関に貼って家主と交渉して家賃を負けさせたという。また電鉄庵馬楽の雅号も持っていた。これはこのころ東京市内を走っていた鉄道馬車が電気軌道に変わったことで「馬が楽をする」という自らの芸名に引っかけた洒落である。 人気絶頂期にあった馬楽だが、長年の遊び過ぎから健康は衰えていた。1910年3月頃に精神に異常を来す様になる。弟子も家族も無い馬楽は、師匠小さんや友人たちの援助で養生するが、入退院を繰り返し、ついに弟の家で胃癌の為に没した。死後、谷中浄名院に『馬楽地蔵』が師匠小さんによって建立された。戒名は『釈浄証信士』。 馬楽の死後、馬楽の名は弟弟子の5代目柳家小三治(後の4代目柳家小さん)が後に襲名し、以後、小さんの弟子達が馬楽を名乗っている。 得意ネタは前述の『長屋の花見』『雪てん』『居残り佐平次』『蒟蒻問答』など。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蝶花楼馬楽 (3代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|